「小説宝石」(1999年3月号)の「となりの社長さん」コーナーに、 大学堂の薮崎佐登志社長が紹介されました。 光文社様と取材&文担当の串間努様のご厚意によりまして これを読めば、大学堂のこと、社長のこと、ホットドッグのことが 是非一度、ご一読下さいませ(^_^)/~~ |
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光文社発行 「小説宝石」 (1999年3月号) |
はじめに-ホットドッグ演歌社長の巻 | ||
ホットドッグ雑感 | ||
腰掛のつもりが社長に | ||
演歌歌手を目指して上京 | ||
歌謡教室の娘さんと結婚 | ||
焼芋屋さんをヒントに移動販売へ | ||
脱サラはむずかしいですよ | ||
やる気とは「世の為人の為」 | ||
人生のリハビリ |
■ホットドック演歌社長の巻 | ||
毎週木曜日の夕方になると、秋葉原にあ るボクの事務所は騒然となる (チトオーバ ーか)。ホットドッグとアイスの移動販売 車がくるのである。 しかもそれが大音量で 四拍子のテーマソングをかけてやってく る。 女子社員たちは「来た、来 たぁ」といって、ホットドッグやアイスを 買いに行く。 するとたちま ち情報が集まった。 「お店の名前は大学堂というそうです」 「このテーマソングは社長が作ったそうで す」 「テーマソングの歌詞カードももらってき ました」 「ホントは社長さんは、演歌歌手になりた くて上京してきたそうです」 「面白い社長さんだと、売り子さんが言っ てました」 というわけで、演歌歌手になりたかった ホットドッグ社長とはどんな方なのか、興 味を持ったボクは取材することにした。 |
●ホットドッグ雑感 | ||
ホットドッグを初めて食べたのはいつのことだろう。小学校に入る以前でないことは確かだ。
四歳くらいの時、千葉の商店街を親と歩いていると、「菊屋」という喫茶店のショーウィンドウに、レースのナプキンを下敷きにした、ホットドッグが陳列してあった。 家で作ってくれたが、それは真っ赤なウインナーソーセージを食パンにはさんだもの。長い一本のソーセージは魚肉ソーセージしか知らなかった。 本格的なソーセージは家の近くには売ってなかった。第一、ドッグ用の長いパンはコッペパンしかなかった。コッペパンにソーセージじゃヘンだろう。せいぜい食べて「フレンチドッグ」だった。太い木の棒にフランクフルトソーセージが刺してあって、ホットケーキの粉をつけて油で揚げたもの。これを「ホットドッグ」とも言っていたな。 関東ではケチャップやマスタードで食べるが、北海道では砂糖をつけると聞いたことがある。 ホットドッグが日本に入ってきた時期については諸説あるが、一応、昭和13年に銀座の西側の三丁目あたりの横丁に屋台で登場したという説をとろう。 他にも銀座の地下に出来たという説もある。 戦争が激しくなってくると、政府が物価を統制するために、「公定価格」という制度を定めた。 ではなぜ「ドッグ」つまり「犬」なのだろうか。 「アメリカではダッチハウンドソーセージを熱い鉄板焼でたべる。 「ソーセージがまだパンに挟まれてない頃、焼いたフランクフルトを食べた客が『これは熱くした犬の肉ではないのか』と言っったジョークを店主が受けて、これを店頭に張りだしたら評判になった」 「1905年頃、ニューヨークのスポーツ漫画家が、新聞にロールパンの中からダックスフントをのぞかせた漫画を描き『ホットドッグ』と命名した(イギリスでは子供がダックスフントの事をソーセージ・ドッグというらしい)」 どれももっともらしい説である。 高校生の時、国鉄千葉駅の改札口手前左側に立ち食いのホットドッグスタンドがあった。キャベツは盛り放題だった。オープンで暖められて周りがパリパリ、中が柔らかいパンを手にしたボクらは思いっきりキャベツを詰め込んだ。 ‥‥そんな思い出を胸に抱きながらボクは大学堂の本社へ向かった。 |
●腰掛けのつもりが社長に | ||
社長の薮崎佐登志さん(昭和23年生 まれ)はにこやかにボクらを招じ入れた。
ボクが、販売員さんから手に入れたホッ トドッグの歌詞カードには「パート2」と あったので、まずパート1というものの存 在について聞いてみた。 すると、社長は二種類の歌があると告げた。パート1は巷に流してないのだろうか。 「車が二種類あるんですよ、ホットドッグ 専門の車と、アイスクリームとホットドッ グと両方売る車と。パート1のほうはホッ トドッグ専門の歌なんですね」 そうかそれでパート2には「アイスクリ ーム、アイスクリーム、アイスクリームだ よう」とアイスを全面に押し出しているの か。 「ハハハハ。移動販売は特殊な商売のやり 方ですから、やはりまず最初にアピールす るのは歌ですからね」 なるほど、確かにウチの事務所があると ころの神田界隈ではもう知らない人がいな いぐらいだ。夕方になると、来るぞ来るぞ そろそろ来るぞとみんなが待っている。 「ハハハハ。よく言われるのは、大学堂さ んが来たから、きょうは金曜日だとわかる とか、もう五時かとかいう感じでね」 カレンダーと時計がわりか。石部金音さ んみたいだな。 「僕もよくわからないんですけどね。僕は2代目の社長ですから」 ということはお父さんがやっていた? 「全然関係ないんです。僕はアルバイトみ たいな形で、腰掛け程度の仕事として考え てたんですけど、いつの間にか大学堂を引 き継ぐことになって」 大学堂がこの商売を始めたのが昭和42 年頃。それ以前に大阪の方で、車でホッ トドッグを売っていた会社があったとい う。それをみた大学堂の先代社長が、面白 い商売があるぞということで、何人かで見 に行った。これを東京に持ってきてやった らいいんじゃないかということで、三人 で「大学堂」という名前で別々に始めたと いう。小岩と、葛西の近くの春江町、それ から市川の辺りだった。そのうち春江町の 系統を引くこの会社だけが残ったという。 先代の社長はバブル経済の時期に不動産関 係の仕事がしたくなり、薮崎さんに「任し たよ」と言って引き継いでいってしまった という。 ありゃま。 薮崎さんも当初は「こりゃダメだろう な」と思っていた。当時、キャベツが高騰 していて、赤字続きになり、すぐに止める つもりだったという。そして、「磁気布 団」売りに目をつけ、その販売にのめり込 んだ。ある程度は売れたが、これがマルチ 商法。友だちを無くすなと感じた薮崎さん はすぐに手を引いた。 「その時、自分がやっていたホットドッグ の商売が良いものに見えたんですよ。外国 から日本をみたようなものかな」 薮崎さんが社長になってから19年。初 めは、駅前とか商店街の一角で静止して販 売していたが、薮崎さんが、移動して売り 歩くやり方を考えついたという。 「屋台の引き売りは色々ありますけど、ホ ットドッグの引き売りというのは僕が初め てじゃないかと思うんです」 道路交通法の関係で、一箇所には大体五 ~十分しか停車できない。だが、短時間に ただ止まっていてはただのトラック。これ では、誰もわからない。 そこで、家の中に 住んでる人を呼び出すには少しびっくりさ せてやろうと薮崎さんは考えた。「ちょっ と面白いようなもので引っ張り出そう!」 と。 それが「歌」だった。 「昔から夜鳴きそばとか焼き芋屋さんは、 テーマソングがあるんですよね。『え~、焼き芋~』とか言うとすぐわかるし、ラーメン屋もチャルメラという曲があります」 |
●演歌歌手を目指して上京 | ||
もともと、演歌社長は歌手になろうという野望を抱いて静岡から東京に出てきた。 高校を出てすぐのことだった。 大学に入ろうとしてではなく、歌手になろうとして上京するというのがカッコいい。高度成長時代しているなァ。 「とにかく東京に出ないと無理だと思って」 そうそう、とにかくビッグになりたい若者は花の東京を目指すものだったのだ。東京は華やかで夢があふれていた。それが幻想にすぎなく、休日は汚い四畳半の貸し間で両膝を抱えながらコッペパンを囓る現実であっても「ここにいるのは本当のオレではない」と思ってみんな頑張ってきた。 薮崎青年は高校時代、野球が好きで、野球部に入っていたのだが、「ばっちこーい」などと大声を出して練習するせいで、喉を痛めた。これでは「歌手になれない」と思い、二年生の時に野球を断念した。野球を続けられなかった挫折感は今でも心のどこかにうずいているという。 上京してからは特に有名な先生に弟子入りするということもなく、まずアルビオン化粧品に就職した。 「そこで仕事をやる傍ら、歌謡教室を探したわけです。それで、佐々木章という、その方はもう亡くなってたんですけども、「シラカバ歌謡教室」というところに入門 しました。佐々木章先生というのは三波春 夫とか三橋実智也とか、あの人たちに教え たことがある作曲の先生なんです」 教室は駒場にあった。勤務先は銀座だ。 そして下宿先は西武池袋線の石神井公園。 この三つを毎日グルグルと巡った。歌手を 目指して一生懸命歌を勉強していた薮崎青 年だが、ある事情でそれを断念するハメと なった。その事情とは何か。 |
●歌謡教室の娘さんと結婚 | ||
実は社長は「僕はバツイチなんですよ」 と我々に明かした。
「教室に佐々木章さんの娘さんがいたんで す。その人がそこを経営してたんだけど、 その人の離婚問題にハマっちゃったんで す」と演歌社長は照れる。 お、だんだん艶 歌になってきたぞ。 離婚問題の相談に乗っているうちに二人 は、結果的に結婚することになった。薮崎 青年その時19歳。娘さんは17歳年上だ ったという。 「そのときから僕の人生もガラーンと変わ っちゃったの。歌手どころじゃなくなっち ゃったわけ。子供が一人いたんですよ。そ こに僕の子供ができ、お母さんとお姉さん と一緒に住んでましたから、一家六人の長 になっちゃった。この人たちを食わせてい かなきゃという人生がそこから始まっちゃ ったわけ。まず金を稼がなきゃいけないと いうことで、アルバイトを始めて、今の仕 事が始まったわけです」 歌謡教室は細々とやっているだけで、そ んなにお金になるものではないという。 「ただ、芸能界とかそういう世界にはね、 佐々木章の娘さんがやってる歌謡教室だと いうことで、顔が利いてました。僕も一応 テイチクレコードの専属が決まってたんで すよ。歌手デビュー寸前までいってたんで すけど、それどころじゃなくなって‥‥」 当時は橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦らが 歌う「青春歌謡」が流行っていた。薮崎青 年も青春歌謡路線でデビューするかという 矢先であったが、右に述べたような一身上 の都合で、それを断念した。まだ弱冠二十 歳。いろんな経験によって仕事をするとい うよりも、身体を使ってする仕事しかなか った。止水工事のバイトもやった。 そうこうしてるうちに、大学堂の仕事を 親戚の人に「結構いいお金になるからやら ないか」と誘われる。 始めはほんの腰掛け だったことは次のエピソードからもわか る。 「歌手は諦めましたが何らかの形で芸能面 に自分の才能を出したいなというのがあっ て、仕事をやりながら、音楽のイロハを勉 強したんです。音符のドレミから(笑)。 それからいろんな本を読んだりして自分で 詞を作るように‥‥。それで、たまたま最 初の頃に作った歌をNHKの『あなたのメ ロディー』に出したら受かっちゃったんで すよ」 なんていう歌ですか? 「『女の涙』という歌。演歌なんだけど (笑)。当時、藤圭子っていたでしょう。あ の人が歌ってくれたんですよ」 いま、彼女の娘は宇多田ヒカル(十六 歳)という名で歌手デビューして、ヒット チャートにも良くでている。 薮崎社長は、それで自信を得て「俺は才 能があるんじゃないか(笑)」と自負し た。昼間はホットドッグを売りながら、ギ ター片手に曲を書いた。坂上二郎さんにも 歌を作ったことがあるという。曲名は「スタコラサッサ」。 なんじゃそりゃ? 「ふざけてるみたいでしょう。これは作詞家の人がつけたんだけど、『スタコラサッサ』というイメージの曲じゃないのよ。哀愁を帯びてる歌だから」 社長はホットドッグを売りながら、ちっちゃなテレビを浦安の駅前で見ていた。ある年の、紅白歌合戦をやる前の歌番組で、二郎さんが「スタコラサッサ」を歌ってくれたという。その時は感激した。「これは俺が作ったんだ」と駅前を往来している人をつかまえて言いたかった。 |
●焼き芋屋さんをヒントに移動販売へ | ||
「浦安駅前で僕は長く商売してたんです。 そこで作った歌が『ホットドッグ人生』。 それをお客さんにちょっと聴かせたりし て」 駅前でホットドッグを売っているときに 道路法問題が発生、そこで法律的にも引っ 掛からないところで商売できないものかと 考え、移動販売をしようと社長は発起し た。 「焼き芋屋の親方に知り合いがいたんで す。彼に引き売りってどうやってやるのか を教えてもらいました。止まっても長い時 間いないから交通の邪魔にもならないし非 常に合理的だなということで、こういう方 法でホットドッグが売れないかなと」 焼き芋の引き売りを応用し、そこに「ホ ットドッグ人生」をプラスした。焼き芋屋 の車でホットドッグのテーマのパート1を カセットに入れて、自分の家の周りを音を 流しながらグルグルと車も流したのだ。 「そしたら『ホットドッグくれ』と買いに 来たんですよ。車は焼き芋屋さんの車よ? 一目瞭然焼き芋屋だとわかるわけ(笑)。 それで、お客さんは車を見て買いに来るん じゃなくて、音を聞いて買いに来るんだな とわかったんです」 この事件に力を得た社長は「この歌は威 力があるんだ。ウケるんだ」と考え、特製 の車を作って、カセットを入れて浦安の街 の中を回った。 「最初は小学校四~五年ぐらいの子供が二 三人面白がってついてきたんですよ。そ のうちフッといなくなって、『あいつら帰 ったな』と思ったら、今度は三十人ぐらい の子供がワーッと追い掛けてきたの」 このことで「これはいける、この歌で勝 負になる」と自信を持ち、そこから名物の テーマソング付きの引き売りが始まった。 曲ができたことによって大転換をしたわけ である。 「店舗販売と違って、流し売りと いうのはこっちから行くわけですから、行 ったときが買い時なわけです。『売りに来 ましたよ、すぐ来ないと行っちゃうよ』と いうような売り方ですから、攻めの商売で すよね。待ちの商売と攻めの商売」 そういやうちの社員も「まだ来ない、ま だ来ない‥‥。あっ、来た!」と言って、ダ ーッと買いに行く。 「ハハハハ。だから、ある意味では、お客 さんを短い時間しかいないということで教 育していっちゃうわけですよね」 千円札を握って、裸足で駆け出してくる 子もいるという。 |
●脱サラは難しいですよ | ||
大学堂の社員定着率は高い。
「こういう商売はやっぱり難しいです。ヤ クザのミカジメ料をどうするかの話もある し。それから、まず自己管理ができないと 駄目なんですよ。サラリーマンというのは完全に管理されてきた人ですからね。長年 飼い馴らされちゃってるから誰かに管理さ れないと駄目なんですよ。だから、脱サラ して何か始めてもほとんどが、駄目なんで す。なぜかと言うとサラリーマンだからで すよ。長い間サラリーマンの教育を受けた 人が、急に違う人間になろうと思っても無 理理なんですよね。 移動販売で特に大事なのは、誰に頼るこ ともできないことです。雨が降る日もあれ ば寒い日もある。そういうとき、出掛けて いくまでグズグズするんですよ。布団の中 から出たくないんですよ。ほんとは雨の日 はうちの中にいっぱい人がいてチャンスな んですけどね」 しかし、独立して一人でやっていればそ のような甘えもでるが、一つの組織として やってる場合には、誰かがスッと行けば 「じゃあ俺も行こうか」とつられて行くと いう。行っちゃえばやるしかないわけだか ら、属しててやってたほうが楽と言えば楽 ということだ。 ポクも脱サラしてモノカキになったのだ が、自由な時間が多いということは、それ だけ自分で判断して動かなくてはならない 時間も多いということがよくわかった。 会 社にいるときは上司からあれやれ、これや れといわれ、ぶつぶつ文句いいながらやっ ていたが、独立してみて初めて自営業の困 難さを知った。自己を律しきれない人間に は向いてない。 ポクは意思が弱いのでつ い、原稿に煮詰まるとパチンコに行った り、本屋に行ってしまう。パチンコは論外 でも、普通、本屋に行って本を買ってきて 読むという行為は褒められるべき事柄なの に、自営業で、締切を抱えている身には犯 罪にも等しい、時間への背信行為なのだ‥‥。 |
●やる気とは「世の為人の為」 | ||
歩合社員の月収は70~80万稼ぐ人も いれば、15万そこそこの人もいるとい う。全て本人のやる気次第で、あてがわれ た地域には関係がないという。
でも「売れない地域だから駄目なんだ」 とか言いそうだが。 「みんなそうですね。でも要するにやる気 ですよ。やる気のある人は、その波動がお 客さんのところに行きますね。 『売ろう』 と思ったら駄目だね。『売ろう』という気 は相手を警戒させます。デパートなんかで 欲しかったら買ってください、要らなか ったら結構ですよというような感じで接す れば、欲しい人は買ってくれるということ であろう。 「やる気というのは、人のため世のために いかに自分が役立つかということがやる気 ですよ。そう言うと『何を偉そうなこと言 って』と思うかもしれないけど。僕はいつ もうちの連中に言ってるんだけど、うちが できることは、ホットドッグ、アイスクリ ームを食べてもらい『ああ、美味しい』と ニコッと笑わせる。このことが世のため人 のために立ってることなんだぞと。これを 一つの生きがいにしてやれば、必ず売れる と」 それでこそ楽しみに待っている女の子た ちがいるわけだ。いま平成不況と言われて いるが大学堂の収益はどうだろう。 「有り難いことにバブルが弾けてからもず っと右肩上がりなんですよ。アイスクリームに関してはね。ホットドッグは変わらないですね、ず~っと」 こういう消費冷えこみの中で上がっている? なぜだ。 「うちの場合には一個一個のものが安いでしょう。だから逆に、いいときもあまりよくない」 ははあ、それで、みんなが下がってくると相対的に上がってくると。なるほど。無理しないでずっと同じことをコンスタントにやっていれば、いつかは芽が出るということだ。ボクも無理しないでおこう。 「適正な価格でちゃんとしたものをお客さんに提供してれば、必ずお客さんはつきますよ。うちみたいな値段のものが売れなくなってきたら、よっぽど悪いですよ」 それは面白い見方だ。大学堂さんにお客さんが買いに来るのは、一つの不況のバロメーターになるということか。 「というのは、ほら、昔から『商売は女と口を狙え』と言うでしょう。うちの商売は女性と子供じゃないですか。それと口。やっぱり人間の欲の中で一番先にくるのは食欲ですから。なかなか食欲のレベルを落とすのは難しいですね、人間。収入が少なくなっても食べる量というのは変わらないですよね」 |
●人生のリハビリ | ||
薮崎さんは『演歌社長』なワケだから、もっとド演歌的な人生哲学をお持ちかと思っていたら、結構合理主義なので、意表をつかれたというか、一言一言に目が開かれる思いだった。経営哲学もしっかりしておられる。
ただ、最後にちょっぴり演歌的な話、つまり義理人情に厚い人だとわかる話があった。 面接にはいろんな人生を経てきた人がいるという。借金まみれだったり、ギャンブル好きだったり、それらをすべてくるんで演歌社長は雇用している。 「僕はね、一切過去は問わないんですよ。現在が大事だと思ってますから。基本的に人間というのは欠陥だらけですからね、身分も含めて。人生を送っていくためには仕事をして稼がないとメシは食えないわけですから『私なりに一生懸命やってますよ』というのがあれば、いいかなと。でも、うちへ入ってきたらみんなまともになりますよ」 つまり演歌社長は、彼らの人生のリハビリを手伝ってあげてるような面もあるのだ。 「そう、だから、人間を再生して使ってるようなもんですよ。再生して蘇生してね(笑)」 一人一人は欠陥人間でも、一人一人が力を出し合えば一つの企業として、事業として成り立っていくというのは素晴らしいことだ。 「率先垂範」という言葉を、文字通り実行しているトップがいる会社なら今後も発展するだろうなと感じて、ポクは静かにこうべを垂れたのであった。
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完 |
「小説宝石」の 取材&文 |
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